昔私が寮に住んでいた頃、とある寮生が「この寮が90年も前からあるというのは嘘じゃないか」と言った。「吉田寮がそんな昔からあるとはとても思えない。3、4年前に、廃墟に寮生が勝手に住みついただけではないか」という趣旨だった。
これはもちろん冗談だったのだが、私もこの話を聞いているうちに、しだいにそんな気がしてきた。本当の吉田寮は長い歴史を持つ寮なのだが、いつも、降って湧いたように唐突にそこにあった。どこか現実離れした様子で、真新しい建物ばかりになっていくキャンパスの片隅に超然と居座っていた。
吉田寮は自らを創造しつづける場所だ。吉田寮の入寮資格は吉田寮自治会が決めた。吉田寮の入寮選考は寮生自身の手で行われ、吉田寮に関わるほとんどのことは寮生自身が決定している。吉田寮では、ルールは与えられるものではなく、自らつくるものだ。吉田寮はあらかじめ目的を与えられ、それに従って運営されるだけの場所ではない。そのかぎりで、吉田寮は1年前に生まれたと言っても、2日前に生まれたと言っても間違いではない。なぜならば吉田寮はたえず自らを塗り直し、新たな決定と新たな意志を積み重ねてきたからだ。
吉田寮は数々の特異な光景を生み出してきた。90年以上も経過した木造の学生寮というと、とかく建物の古さばかりに目がいくが、注目すべきことは建築の歴史だけではない。吉田寮の特質はむしろ、何もない場所からでも新たなものを創造してしまう行動の力にある。
私が寮に住んでいる間だけでもいくつもそんな例を見ることができた。空き地があればステージを組み、ゲリラ的にライブを行うことなど、ほとんど日常茶飯事だった。吉田寮のすぐそばに小屋を建て、そこに住みついた者もいたし、学内に勝手にカフェをつくってしまった者もいた。すべてが寮生の仕業だったわけでもないが、吉田寮の周りにはそうした人々が集まりやすい土壌があった。そこにあるのは、建物であれ空き地であれ、あるものは何でも借用してしまおうという不穏な創造性だった。吉田寮に対して伝統を強調することは正しくない。なぜならば、伝統の形を変え、したたかにそれを利用してしまう精神性こそ吉田寮の風土だったからだ。
本書には大石貴子の写した吉田寮の光景が収められている。彼女は京都に在住した学生時代以来、吉田寮と長い関わりを持つ。しかし、ここではむしろ、現実と非現実の垣根をかいくぐるような大石貴子の作風に注意を払いたい。夢の中の場所のように、超然としながらも、どこかはかない吉田寮の光景を照らし出すためには、非現実を射るこのまなざしこそが必要だったのだ。彼女の目線は、冷徹な記録に徹するようでありながら、吉田寮の不思議な空気感を丹念に拾い上げている。記録と記憶のあわいで、少しだけ現実を離脱したこれらの写真は、間違いなく、私の知る吉田寮の姿を封じ込めている。
今回の写真が特異な光景の記憶をとどめるよすがとなれば幸いである。
高田敦史
(この文章は2011年のアメリカでの写真集出版時に書かれたものです。)
高田敦史
2001年から2006年まで京都大学総合人間学部に在籍。五年間を吉田寮ですごす。
東京大学総合文化研究科にて修士号を所得。
哲学と文学に傾倒するプログラマー。